韓良誠医師より30万元のご寄付を戴きました



大きなハートの形に刈り込まれた緑のガジュマルがトレードマークの韓内児科診所(民權路二段279號)。このたび院長の韓良誠先生が、本協会へ30万元もの大金をご寄付くださいました。本日4日、野崎理事長以下会員5名で韓院長を訪問し、あわせて「名誉顧問」へのご就任もお願いいたしましたところ、韓院長は恐縮なさりながらも、快くお引き受けくださいました。

韓院長は台南の名医であり民族運動家、政治家としても活躍された韓石泉氏のご三男で、87歳になられる今も日々患者の診察をされています。台南YMCA総幹事、光華高中董事長など多くの役職もお勤めで、また頼清徳副総統の医学生時代の恩師でもあります。

この日は私たちのために一時間半ほども時間をとって、お姉様の淑馨様と一緒に、日本語でたくさんのお話を聞かせてくださいました。

日本統治下の小学校時代、厳しくも愛のある指導をしてくれた担任の笹原先生を、戦後20年以上経ってから、同窓生たちでお金を出し合い、台湾にお招きした時の話。恩師の姿を目にするや、かつて一番素行が悪く、一番厳しく指導されていた生徒が駆け寄っていき、恩師の足元をかきいだいて、涙に喉を詰まらせながら
「先生! 当時、私を厳しく叱ってくださってありがとうございました。おかげさまで私は真っ当な人間になれました。さもなければ、私はヤクザになっていたかもしれません」
と言い、それを見ていた同級生たちも皆涙を流したといいます。

また、お父上が台北の総督府医学校に学んでいた頃、ストライキ運動を主導したために除名されそうになったところ、校長の堀内次雄先生がストライキに至ったわけをよく聞いて、それには正当な理由があったと判断され、処分しなかったというお話。

さらに、お父上が妻子を伴って熊本医科大学に留学していた頃、ある日突然胃から大量に出血し、人事不省となった。そのとき指導教官の明石真隆先生が懸命に治療してくれたおかげで一命を取り留めたというお話。万一あの時父が亡くなっていたら、家族全員路頭に迷っていたであろうとも付け足されました。

院内にはご両親を紀念する部屋があり、そこに堀内校長と明石先生の銅像も飾られています。

この度、韓院長が台南市日本人協会へ少なからぬ金額をご寄付くださった背景には、こうしたエピソードに代表される、日本人への特別な思いがおありなのです。

別れ際には、お父様の自伝の日本語版書籍『韓石泉回想録』(あるむ出版)など色々なお土産までいただきました。本協会は、院長のおこころざしを有り難く拝受し、慎重に、かつ有意義に、用いさせていただく所存です。今後ともよろしくご指導のほどお願い申し上げます。

なお医院の奥には、外の喧騒とは別世界のような美しい庭園があり、そこには頼清徳副総統が植樹された松科の木もあります。頼副総統のお人柄を示すエピソードとして、韓院長はこんな話もしてくださいました。院長は前々から、台湾にまだない「老人専門病院」を成功大学に創設したいと考えておられました。そのためには(当時総統就任前だった)蔡英文氏にこの計画をお伝えすべきと考え、頼氏にお取り次ぎをお願いしました。頼氏はそのとき、蔡氏が総統に就任してからこの計画を進めましょうとお返事され、それから長い時間が経ち、韓院長ご自身もこの件を忘れていた頃、頼氏から連絡をもらい、蔡総統に会う時間を決めましょうと。それは蔡英文氏が総統に就任された直後のことだったといいます。

また、韓良誠院長がよくお話しになるのは「平和の尊さ」です。戦争中の出来事を含めた韓家の歴史について、筆者大洞が下記コラムにまとめていますので、よろしければご一読ください。

「日本統治時代の台湾医師・韓石泉が記録した台南大空襲の悲劇」

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